SOMEOFTHEM

野良メディア / ブログ / 音楽を中心に

サムオブ井戸端話 #110『ミュージシャンが”らしくない”曲を発表するときの客観性』(前編)

SOMEOFTHEMのメンバーであるカンノアキオ、YOU-SUCKで音楽にまつわる井戸端話の文字起こしを毎週アップします。

 

KOHEI JAPANの新曲が"らしくない"と思ったカンノメンバー。自分らしさに対して客観的な目線があることによって次作が出せることの循環について語りました。

 

 

カンノ:KOHEI JAPANが約10年ぶりのシングルをリリースしました。

カンノ:KOHEI JAPANはもともとMellow Yellowっていうグループに所属しているラッパーです。

カンノ:そしてRHYMESTERMummy-D実弟RHYMESTERの初期楽曲「ブラザーズ」等に参加しています。

カンノ:または、KICK THE CAN CREWRIP SLYMEも所属していたFUNKY GRAMMER UNITのメンバーでもあり、RIP SLYMEの初期楽曲にも参加していますね。

カンノ:そしてソロ活動も2000年代くらいまでは活発だった印象で、アルバムには下ネタ曲を忍ばせてることも多かったんですが(笑)、わりと家族について歌った楽曲が多かった印象かな。『Family』っていうEPもあるくらいですから。

カンノ:そんな人が10年ぶりに出したシングルがすごいダーティーだった。まったく”らしくない”新曲が来た。

YOU:たしかに”らしくない”ね~。

カンノ:で、昨年鬱を患っていて薬も服用していたと本人がInstagramで投稿していました。そのときの心情を表したのが新曲「Dance In The Dark」ということですね。トラックもラップの内容も暗いですね。で、そういう状態だったことは本当だと思うのですが、その上でその人が今までのキャラクターではない面を出すということは、ある種の自己批評だと思ったんです。自分の”らしさ”と”らしくなさ”を客観的にわかっていないと”らしくない”ものを発表できないと思うの。「なんにも考えないでできました~」は成立しないじゃん。考えるじゃん。「この手はまだやったことないな」とかさ。

YOU:はい。

カンノ:で、次の作品を出すという行為って、「前回までのアプローチはこうだったから、次はこうしてみよう」っていう自己批評の繰り返しだと思うの。

YOU:おもしろい捉え方だね。

カンノ:そうじゃないとずっと二番煎じ、三番煎じをやることになっちゃうから。前回までの自分とか、今の世の中のモードとかを客観的に見て、作品は発表されるじゃん。だから「作品を出す」ってずっと相対的なものだなと思ったの。絶対的ってなかなかいないと思うんだよ。絶対的に完全に自分を信じたモードというか。信じている人のモードと、疑っている人のモード。

YOU:なるほど。

カンノ:で、ヒップホップってバトルブームで「俺は〇〇で〇〇だ!」みたいなセルフボースティングっていう自己誇示のパフォーマンスがあるじゃん。まぁ、ある種の自己信仰みたいなものだけど、でもトラックとかはなにかの曲をサンプリングして作っていたり、「この曲のこの部分をこう使ったらよりかっこよくなるな」っていうのは相対的なものの作り方じゃん。そういうことが幾つも重なってヒップホップの楽曲って作られたりするじゃん。その絶対的なものと相対的なもののバランスはおもしろいなと思うんだよね。

YOU:はいはい。

カンノ:またべつの話すると、昔の『東京ポッド許可局』を聞いてて、サンキュータツオさんが古今亭志ん朝立川談志の違いの話をしていて。落語をめちゃくちゃ疑っているのが談志で、落語を信じているのが志ん朝だと。「落語とはなに?」という質問に対して談志は「業の肯定」と答えると。たとえば忠臣蔵っていうのは様々な古典芸能で吉良上野介を討ち取る赤穂浪士の47人の物語を語ると。ただ唯一、落語だけは赤穂浪士にならずに逃げた何百人の物語だっていう話をしていて。つまり「戦いたくない!」と思った人が落語になる。それが「業の肯定」っていうやつ。怠けたい、働きたくない、戦いたくない。で、これってすごく落語を理屈っぽく捉える話じゃん。

YOU:そうだね。

カンノ:で、志ん朝は「落語のよさはなんですか?」みたいな質問に「狐や狸が出てくるところです」って言ってるんだって。

YOU:アハハハハッ!

カンノ:これってたとえば、「ロックのよさってなんですか?」という質問があったら「ミニマムなバンド編成で、こういうコード進行で、こういうリズムで…」という理屈を一言でまとめられるのが談志で、「ラブアンドピース」って答えるのが志ん朝だなって思ったの。

YOU:おもしろいね。

カンノ:で、KOHEI JAPANの新曲を聴いて、自身が鬱を患って辛かった思いの歌は音楽を信じてる側の目線だと思うんだけど、反面今までと全然違うスタイルの楽曲を出すというのは相対的な目線であり疑いの目線だなと思うんだよね。このバランスがおもしろいなと思ったの。絶対と相対っていう。

YOU:たしかにものを作るって行為は批評の目線だよね。

カンノ:そうじゃなきゃいけないかなって思うかな。「ここはやってないな」とか、「ベタな歌も自分の味付けをしたら新鮮に聞こえるかもな」とか。僕はそういうことを感じさせてくれる楽曲がやっぱり好きかな。で、そうじゃなければ、とことん甲本ヒロトを目指さなきゃいけないと思うの。

YOU:あ~、同じことをし続けるということね。

カンノ:そういうこと。それを突き詰める。ルーティンワークを突き詰めなければならない。矢沢永吉もそうかもしれない。

YOU:”YAZAWA”を続けなければならない。

カンノ:そういうバランスだと思う。KREVAはずっと「俺がNo.1!」みたいなことを歌いつつも、サウンドはアルバムごとで全然変化してるし、向井秀徳もずっと「繰り返される諸行無常」と歌ってるけどサウンドは変わってるしね。この「言ってること」と「やってること」の違いが絶対と相対のバランスなのかなと思うの。

YOU:そういうところはTHE NOVEMBERSに感じる。ちゃんと音楽に対する疑いを突き詰めた先に喜びを感じてると思う。

YOU:どれだけ音楽に対して疑っても熱中する瞬間はあるからね。ギターを何時間も弾けるとかさ。

カンノ:でも、「なにがなんでもギターを練習するんだ!」ってギターを信じてる行為だけど、「昨日はここまでできたから、今日はこのテクニックを身につけたいな」とか「このテクニックはこの曲でこういうふうに使えるかもな」とかは相対的な行為だなと思うの。まぁ、ギターに限らずいろんなことに当てはまるけど、それで独自進化するとかね。

YOU:そうだね。

カンノ:信じると疑うの塩梅でいうと、「本人なりの理屈を突き詰めた人」ってやっぱりかっこいいんだよね。それは他人に説明できなくていいし。そういうところ込みでKOHEI JAPANの新曲を聴いたらおもしろかったですね。

f:id:someofthem:20231005182930j:image